合格体験記(旧)

私・若林は、師匠・山本勇先生の主宰する「山本勉強会」で、お手伝いさせて頂いていました。
その時の、生徒さんたちの「合格体験記」です。

★柏野仁弥 (鹿児島放送・平成29年・早稲田大学・土日コース)

若林先生には内定した後、主にスポーツ実況を教えてもらいました。神宮球場で実際の試合を見ながら練習したり、道を歩きながら見えてきたものを実況したり、スーパーへ行きリポートをしたりなど鍛えてもらいました。
若林先生はダメなところをハッキリと指摘してくれます。
道端に咲いている花の名前が分からない。スーパーのさんま150円が高いのか安いのかも分からない僕に「庶民感覚が無い奴はアナウンサーになってもダメだ」と叱って下さいました。
内定してからの過ごし方が大切なんだ。2人の先生の言葉が身に沁みました。

★高山基彦(青森テレビ・平成27年・社会人・東京電機大学卒業・土日コース)

どこの放送局からも内定が頂けず、一般企業へ就職しました。入社した会社では自分を騙し、夢を忘れたフリをして毎日仕事に励みました。
仕事にも慣れてきた社会人3年目のある日、仕事から帰り、自宅のテレビをつけると、そこにはかつて勉強会で一緒に頑張っていた仲間がアナウンサーとして活躍している姿が映っていました。とても輝いていました。 この瞬間、涙が溢れてきました。それは自分自身への悔し涙でした。アナウンサー受験を再スタートしました。アナウンス技術は勿論のこと、面接対策や授業時間外でもエントリーシートを添削して頂きました。しかし、社会人になってからのアナウンサー受験は学生時代とは全く違うものでした。社会人として経験している分、アナウンス技術や面接の会話など高いレベルの内容が求められます。そして、何よりも募集自体がほとんどなく、あったとしてもアナウンサー経験者を対象とするものが大半でした。その為、対象が新卒の学生や経験者であってもエントリーシートは送り続けました。

私が内定を頂くまで、学生時代を除いても200社近くエントリーシートを送りましたが、書類審査を通過したのは30社前後です。その中で最終試験に進むことが出来たのは4社程度でした。少ないチャンスの中、最終試験まで進めても不採用が続くと、 「夢を諦めて、あんな思いはしたくない」といくら思っていても心が折れそうになります。
30歳目前で、私はすでに結婚をし、家庭がありましたので、年齢としてもこれ以上アナウンサー受験は出来ないと考えていました。そして最後のつもりで受験した放送局から内定を頂けました。それが現在、私が働いている放送局です。内定の電話を貰った時、正直あまり実感が湧きませんでした。しかしその後すぐに電話で先生に内定の報告した時、心の底から実感が湧き、職場で一人、大号泣していました。

★五十川裕明(テレビ山口・平成27年・専修大学卒業・土日コース)

若林先生には実践的な特訓でアナウンスの力をつけて頂きました。大学1年生の頃から神宮球場の2階席で野球実況(高校野球・大学野球)の練習に付き合ってくださいました。普段の授業とは別に、授業料なしで綿密な指導をしてくださいました。放送局の試験では、面接試験を通過するとカメラテスト(実技)があります。若林先生のおかげで、野球やサッカーの映像を突然見せられても、何かしら言葉を発することができました。若林先生のご指導があったからこそ、放送局の試験を突破できました。

★田島嘉晃(福井テレビ・平成27年・明治大学卒業・土日コース)

若林先生
スポーツを実況する、選手を取材する心構えから教えて頂きました。先生は、高校サッカーの実況を競技場で指導して下さいます。どう話を繋げていくか、声量不足、音の立て直し、変なクセや応援席のリポート内容など山ほど課題が見つかりました。しかし、それらの克服に向け練習を積み重ねると、自分の表現力が以前よりも高まっていることに気づきました。しかし課題は尽きません。理想の実況ができるように日々奮闘中です。スポーツアナウンサーを目指している方は、なるべく早く若林先生の講義を受けるべきであると思います。自分だけでは課題は見えにくいです。私はもっと早く講義を受けておけば良かったと後悔しています

★都倉悠太(NHK ・平成27年・専修大学卒業・土日コース)

神宮球場での実況練習では、若林先生から「センスねえよ。本当に野球やってきたのか?」という言葉をかけられ、悔しさを隠せないこともありました。しかし同時に、「それだけ言われて悔しくないのか!全力でやれよ!という熱い思いも感じました。先生はご自身の体調が悪いときでも、生徒が私一人しかいなくても、球場に指導しに来てくれました。

★稲垣龍太郎(仙台放送・平成23年 早稲田大学卒業)

若林先生に初めてお会いしたのは、1年生の6月でした。日本テレビ社屋内のカフェで、ただ「アナウンサーになりたい!」と漠然と思っていた私に、初対面にもかかわらず、アナウンサーを目指す心構えやアナウンサーの仕事の厳しさを熱く語ってくださいました。がっちり握手をして「共に闘おう」と言葉をかけてくださり、山本先生と若林先生の下で修業してアナウンサーを目指そうと心に決めました。
レッスンでは「お前みたいな雰囲気の人間、アナウンサー試験の会場にいない!」と言われ号泣したこともありました(当時の私の風貌を見れば当たり前なのですが)。実況練習で、思い通りにできなくて悔し涙を流したこともありました。ですが、どんなに言いにくいことでも、はっきりと遠慮なく指摘してくださる若林先生のおかげで、自己改革、自分磨きを実践し、結果アナウンサーの内定をいただくことができました。
アナウンサーを目指す学生が自分自身を変えられるように、本当にアナウンサーになれるように、本人のためになることは全て包み隠さず言ってくださる若林先生の愛情こそ、本当の思いやりなのだと思いました。

★中村剛大(北海道文化放送・平成23年 中央大学卒業)

「大丈夫だよ。お前なら絶対にアナウンサーになれる」東京キー局のアナウンサー試験に全く通らず、落ち込んでいた時。若林先生からかけていただいた言葉です。非常識なほど高倍率なアナウンサー試験。いつ終わりが来るのか、終わりがあるのかもわからない長期戦。そんな苦しい中でも、若林先生は一緒に戦って下さいます。
若林先生は、アナウンス技術はもちろんそれ以上に、アナウンサーとしてどう生きるかをご指導して下さいました。放送に臨む姿勢、周りへの気配り、大人のマナー…時には優しく、時には本気で怒って教えて下さいます。本当に感謝してもしきれません。
アナウンサーになりたいと思ったら、ぜひ1度足を運んでみて下さい。あなたもきっと、憧れのアナウンサーになれます。

★波佐間崇晃(鹿児島読売テレビ・平成20年  明治大学卒業)

若林先生の神宮球場での野球実況レッスンです。
野球が大好きな私にとっても先生のご指導は厳しいものでした。場面に合った声のトーン、喉のスタミナ、描写力、いずれも自分の力のなさを実感することができました。この場所で、プロの実況を肌で感じることができ、スポーツアナへの想いが強まったのは間違いありません。 同期や後輩の上達ぶりに焦らされもしました。私にとっては、これ以上とない競争心をあおられる場所でした。 汗をかきながら、喉をからしながら練習した日々は、自分の最大の自信になりました。

★白方雄平 (長崎国際テレビ・平成19年 明治学院大学卒業)

若林先生は私に「おまえの目は 本気じゃない!情けなくないのか!」とおっしゃって下さいました。私ははっとしました。「自分を変えるためにアナウンス受験を始めたのに、また自分に甘えを持ってしまっていたのか」情けなくなり、私は汐留の喫茶店で人目もはばからず泣き崩れてしまいました。それからは毎週、金曜日のレッスンのほかに山本先生、若林両先生に特別レッスンをつけてもらいました。先生方はお忙しいのにもかかわらず、私の特別レッスンを快く引き受けてくださいました。

★廣田俊之(長崎国際テレビ・平成19年東京大学大学院中退、東北大学卒業)

夜行バスで仙台から通いました。
神宮球場での六大学野球実況練習では、最初、周囲を気にして、大きな声で実況できませんでした。へたくそで、滑舌も悪く、しゃべり続けることもできない私に対して、若林先生、石原先生は周囲の目も気にせず、私よりもはるかに大きな声で実況してくださり、熱心に何度も何度も教えてくださいました。そして、「神宮に来て声出さなかったら、意味ねぇよ!」はっとしました。“上手くなくていい、注意してすぐ直らなくてもしょうがない・・・でも頑張れよ。これ以上ないってくらいやれよ。”
ICUのキャンパスでも、若林先生は周囲を気にせず発声練習を教えてくださいました。先生にご指導をいただいて、のどが潰れないように気をつけながら、広場で大きな声で発声練習をしました。そのおかげで、声を変えることができました。
若林先生は、仕事の後にも関わらず飲みに連れて行ってくださり、「小さくまとまるな。思いっきりやりなさい。」と励ましてくださいました。
面接練習で、「面接で緊張しないには、どんなテクニックがありますか?」と質問すると若林先生が「テクニックに走っているのがダメ。気持ちを伝えればいい。言葉は下手でもいい」その言葉のおかげで、翌日の長崎国際テレビの受験では、合宿のスピーチのときのように「アナウンサーしか考えられません。御社のアナウンサーになりたいです。」という想いを伝えることができました。何も考えずに面接に臨んだのは初めてでした。

★和泉義治 (ラジオ福島 平成17年都留文科大学卒業 18年入社)

若林先生は、何度も私の意思の弱さ、覚悟の足り無さを指摘して下さいました。6時間の個人特訓を通じて、私のアナウンサーになりたいという夢は、叶えなければ満足のいかない野望に変わりました。